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文芸・故事・伝説 / 徒然草

つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 
あまりに有名なこの序段で始まる徒然草は、1330年頃、吉田兼好によって書かれた日本を代表する古典随筆です。全243段からなり、その半分は作者の感想や意見を述べた内容となっています。特に、人間としての生き方、身の処し方、あるいは日常の態度や行動など、処世訓に関する内容が大きなウエイトを占めています。その他に逸話や奇談、滑稽談などの記述が全体の四分の一を占めています。
 
学校で習った徒然草は、序段を含めほんの一部の抜粋であり、全段を通して兼行がどんなメッセージを発していたのかなど知ることはできませんでした。歳を重ねてから何気なく手にした徒然草は前述の通り処世訓満載であり、その内容は現代でも通用するものが多く見受けられます。学生のころは機械的に受け入れていた徒然草ですが、今は兼行の感性がとても身近に感じることができ、大好きな作品となりました。
 
そんな徒然草の中に、鯉の記述を見つけましたので紹介します。
 
(原文)

第百十八段
鯉のあつもの食ひたる日は、鬢そそけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉(きじ)、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」など、申されたりけり。

 
(現代語訳:参考文献2より引用)

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鯉の吸いものを食べた日は、鬢の毛の乱れがないということである。膠(にかわ)にさえ製造するほどの物だから、ねばりけのあるものに違いない。鯉ばかりは主上の御前でも料理されるものであるから、貴い魚である。鳥では雉(きじ)が、無類のけっこうなものである。雉や松茸などはお料理座敷の上にかけてあっても差しつかえはないが、その他のものは入れるわけにはゆかぬ。中宮(後醍醐天皇の皇后)の東二条院のお料理座敷の黒棚に雁のおかれてあったのを、中宮のおん父の北山入道殿(西園寺実兼)が御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でお棚におりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある侍女がおそばにお仕えしておられないためかと思われます。と書き送った。

 
魚料理の中でも特に鯉は、天皇に出されるほど上等なものとして当時は位置付けられていたことがわかります。しかし、兼行自身は鯉料理を食べたことがないということが「・・・ねばりけのあるものに違いない。」という言葉からわかります。また「鬢の毛の乱れがない」というのも少し誇張しすぎの感がありますが、鯉料理の記述としては大変貴重といえます。
 

参考文献
1)新潮日本古典集成 「徒然草」 木藤才蔵:校注 新潮社
2)現代語訳 「徒然草」 吉田兼好:作 佐藤春夫:訳 河出書房新社

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